本記事では、プリズンブレイクで主演を演じたことで知られるウェントワース・ミラーさんの英語スピーチを彼の生い立ちを踏まえた解説をしています。
英語学習に留まらず、その先の教訓まで深堀していきます。
生い立ちと経歴
- 1972年イギリス出身。
- アメリカを拠点とし俳優として活躍。
- 高校時代はミュージカル、大学時代はアカペラグループの一員として過ごす。
- 俳優になる前はロサンゼルスの製作会社で働いていた。
俳優になるべく1995年ロサンゼルスへの移住を決意。
2005年、フォックスネットワークの『プリズン・ブレイク』の主演マイケル・スコフィールド役を得る。
その年の2005年に、『プリズン・ブレイク』の演技を評価されゴールデングローブ賞にノミネートされる。
一躍有名俳優として名をはせることになる。
スピーチの背景
今回のスピーチは2013年に行われた、「人権擁護団体ヒューマン・ライツ・キャンペーン」のパーティでのスピーチです。
このキャンペーンは、アメリカ合衆国に基盤を持ちニューヨーク市に本部を置く国際的な人権NGOで、世界各地の人権侵害と弾圧を止め、
世界中すべての人々の人権を守ることを目的に、世界90か国で人権状況をモニターしている団体が開催しているものです。
題材:Youtubeから
英語スクリプト
Thank you.
First and foremost I wanted personally to thank the Human Rights Campaign for the incredible work they have done and the work that they continued to do.
Not only here, in Washington State but across the country and around the world, as we all know this is critical, it’s life-changing, it’s life-saving.
It is my great honored privilege to be here tonight to come myself a member of this community.
It is also something I was surprised.
I’ve had a complicated relationship with that word: Community.
I’ve been slow to embrace it, I’ve been hesitant, I’ve been doubtful.
For many years I could not or would not accept that there was anything in that world for someone like me.
And there are reasons for that.
I wasn’t born in this country, I didn’t grow up in one particular religion.
I have a mixed-race background and I’m gay.
Really, it’s just your typical all-American boy next door.
It has been natural to see myself as an individual.
It’s been a challenge to imagine that self as a part of something larger.
Like many of you here tonight, I grow up in what I would call “Survival Mode”.
When you in Survival Mode, your focus is on getting through the day in one piece.
And when you’re in that mode at 5, at 10, at 15, there isn’t a lot of space for words like “Community”.
For words like “Us”, and “We”.
There is only space for “I”, and “Me”.
In fact, words like “Us” and “We”, not only sounded foreign to me at 5 and 10, and 15, they sounded like a lie.
Because if “Us” and “We” really existed, if there was really someone out there watching and listening and caring, then I would have been rescued by now.
That feeling of being singular and different and alone. carried over into my 20s and then into my 30s.
When I was 33, I started working on a TV show that was successful, not only here in the States, but also abroad.
This meant over the next 4 years, I was traveling to Asia, to the Middle East, to Europe, and everywhere in between.
And in that time, I gave thousands of interviews.
I have multiple opportunities to speak my truth, which is that I was gay.
But I chose not to.
I asked to choose between being out of integrity and out of the closet, I choose the former.
I choose to lie, I chose to disassemble.
Because when I thought about the possibility of coming out about how that might impact me and the career I worked so hard for.
I was filled with fear, fear, and anger.
And a stubborn resistance that I had built up over many years.
When I thought about that kid somewhere out there who might be inspired or moved by me taking a stand and speaking my truth.
My mental response was constantly “No, thank you”.
I thought I’ve spent over a decade building this career alone by myself.
And from a certain point of view, it’s all I have.
But now, I supposed to put that at risk to be a role model to someone I’ve never met, who I’m not even sure to exist.
It didn’t make any sense to me, that did not resonate at the time.
Grouing up I was a target.
Speaking the right way, standing the right way, holding your wrist the right way.
Every day was a test.
And there were thousands ways to fail, thousands ways to betray yourself.
Do not live up to someone else’s standard of what wa acceptable, of what was normal.
And when you fail the test, which was guaranteed, there is a price to pay, emotional, psychological, physical.
And like many of you, I paid that price.
More than once in a vriety of ways.
The first time I tried to kill myself, I was 15.
I waited until my family went away for the weekend and I was alone in the house and i swallowed a bottle of pills.
I don’t remember what happened over the next couple of days but I’m pretty sure, come Monday morning, I was on the bus back to school.
Pretending everything was fine.
And when someone asks me if that was a cry for help, I say “No”.
Because I told no one.
You only cry for help if you believe there’s help to cry for, and I didn’t.
I wanted out, I wanted… gone at 15.
“I” and “Me” can be a lonely place, and it will only get you so far.
By 2011, I made the decision to work away from acting and many of the things I previously believed so important to me.
And after I’d given up the script and the sets which I dreamed of as a child and resulting and scrutiny which I had not dreamed of as a child.
The only thing I was left with was what I had when I started, “I” and “Me”.
And it was not enough.
In 2012, I joined a men’s group called “The Mankind Project”, which is a men’s group for all men.
And I was introduced to the still foreign and still potentially threatening concept of “Us” and “We”.
To the idea of brotherhood, sisterhood, and community.
And it was via that community that I become a member and proud supporter of the Human Rights Campaign.
And it was via this community that I learned more about the persecution of my LGBT brothers and sisters in Russia.
Several weeks ago, when I was drafting my letter to the ST. Petersburg international film festival declining their invitation to attend a small, nagging voice in my head, instead of that no one would notice.
That no one was watching or listening or caring, but this time, finally, I knew that voice was wrong.
I thought if even one person notices this letter in which I speak my truth and integrate my small story into a much larger and more important one.
It’s worth sending.
I thought “Let me be the someone else what no one was to me”.
Let me send a message to the kid maybe in America, maybe in some place or overseas, maybe somewhere deep inside.
A kid who’s been targeted at home or at school or in the streets that someone is watching and listening and caring.
That there is an “Us”, that there is a “We”.And that kid or teenager or adult is loved, and they are not alone.
日本語和訳
ありがとう。
まず初めに、この「ヒューマンライツキャンペーン」にこれまで成し遂げてきた素晴らしい取り組みと、その継続に個人的な感謝を述べます。
この場や、ワシントン州だけでなく、アメリカ全土、そして世界中で誰もが知っているように、この活動は非常に重要なことで、人生を変え救います。
今夜、この場にいれて、コミュニティの一員でいられているのを大変光栄に思っています。
僕もびっくりしましたよ。
「コミュニティ」:僕はこの言葉と複雑な関係にありました。
それを受け入れるのに時間がかかりましたし、躊躇して、疑っていました。
僕みたいな人にとって、何年間も、世界にそれが存在することを受け入れることが出来ませんでした。
そして受け入れられないのには理由がありました。
僕はこの国で生まれていません。
特定の一つの宗教を信仰してきたわけでもない、ハーフです。
さらに言うと、僕は同性愛者です。
本当に、お隣にいるような典型的なアメリカの男の子です。
自分を一人の人間として見るのは自然にできましたが、何かもっと大きなものの一部であることを想像するのは困難でした。
多くの方が今夜ここにいるみたいに、僕は「サバイバルモード」で育ちました。
サバイバルモードの時はその日一日を無事に過ごすので精一杯です。
そして、そのモードで5歳、10歳、15歳と過ごすと、「コミュニティ」というような単語を入れる余地があまりなくなってしまいます。
「私たち」のような単語が入る余地はなく、そこにはただ「私」だけです。
実際、5歳、10歳、15歳の時、僕には「私たち」という単語が異質なもののように聞こえ、嘘のように聞こえました。
なぜなら、もし本当に「私たち」という単語が存在するのなら、もし誰かが僕に気付き、寄り添い、気遣ってくれていたら。
僕は今頃救われていたはずだって思っていたのです。
一人で、変わり者、で孤独な感覚が20代、30代になるまで続きました。
33歳の時出演したドラマシリーズはアメリカ国内だけでなく海外でもヒットしました。
それから4年以上、僕はアジア、中東、ヨーロッパ、いたるところを旅することになりました。
その間、僕は何千ものインタビューを受けました。
僕には自分の真実、僕が同性愛者だと話す機会が何度もありました。
でも、そうはしませんでした。
僕は真実を隠すか、カミングアウトするかという選択で、前者を選びました。
嘘をつき、偽ることを選びました。
なぜならカミングアウトすることで僕や、僕が一生懸命に働いてきた経歴にどんな傷がつくか考えたら怖くなったんです。恐怖と怒りです。
そして何年間にもわたって築き上げてきたんだという葛藤があったんです。
僕が真実を話すことで、どこかにいる子供が勇気づけられ、行動を起こせるかもしれないと考えた時、僕の心の声は「遠慮するよ」でした。
僕は10年以上にわたって一人でキャリアを築き上げてきたと考えていました。
ある意味、僕にとってそれが全てだったんです。
その全てをリスクにさらすかもしれないのに、誰かのお手本になるべきなの?
一度もあったことも無い誰かの為に? いるかどうかも知らない人の為に?
僕にはそれが理解できませんでした。
その時は納得いきませんでした。
幼いころから、僕は攻撃の対象でした。
正しく話し、正しい姿勢で立ち、正しく行動すること。
毎日が試験のようでした。
そしてその試験には、失敗する方法が千種類以上あって、自分自身を裏切る方法も千種類ありました。
誰かの基準や常識に従って生きるのを辞めなさい。
その試験に失敗すると、失敗が保証されていたにもかかわらず代価を支払うことになります。
感情的に、心理的に肉体的にもです。そしてここにいる皆さんのように、僕も代価を支払いました。
一度に限らず、様々な方法でです。
最初は自殺を図りました。15歳の時でした。
家族が外出する週末を待ち、一人家で一瓶の薬を全部飲み込みました。
そのあと数日に起こったことは覚えていませんが、月曜日の朝、スクールバスに乗っていました。
まるで何事も無かったかのように。
誰かが僕に、自殺の試みたのは助けを求めている合図かと尋ねられ、僕は「いいえ」と答えました。
誰にも言いませんでした。
助けを求めて泣くのは、そうしたら誰かが助けてくれると信じているときだけです。
しかし僕は信じていませんでした。
ただいなくなりたかった。消えてしまいたかった。そう考えたのが15歳の時でした。
「私」というのは孤独なもので長くは持ちこたえられません。
2011年までに、僕は演技の道から離れるこをを決めました。
以前から僕にとって、とても重要だと思っていたものの多くから離れようと、子供の頃夢見ていた脚本とセットから離れることを決め、今まで気にしていなかったことに注目すると、僕に残った唯一のものは僕が最初に持っていたのもでした。それは「私」でした。
そしてそれは十分ではありませんでした。
2012年に僕はメンズグループの「ザ・マンカインド・プロジェクト」に加わりました」
そのグループは全ての男性のための男性アイドルでした。
「私たち」というまだ外国の脅威的な概を知らされました。兄弟関係、姉妹関係、コミュニティという考え方です。
僕はコミュニティを通して「ヒューマン・ライツ・キャンペーン」のメンバーになり、誇りに思うサポーターになりました。
そしてこのコミュニティを通して、ロシアにいLGBTるみんなが迫害されているのを知りました。
数週間前、サンクトペテルブルク映画祭へ招待状への辞退の旨の手紙を書いていた時、僕の頭の中で小さな声が聞こえました。「(君が参加しようが辞退しようが)誰も気にしないよ」って。
「誰も君を見たり聞いたり、関心を持ってくれないよ」と。
しかし今回、やっとその声が間違っている事に気が付きました。
真実が書いてある手紙にたった一人でも気付いてくれれば、そして僕のちっぽけな話が影響力のあある話に繋がるとしたら、手紙を送ることに意味があると思えたんです。
誰かの為に、僕が昔必要とした人になろうと思ったんです。
家や学校、路頭で苦しんでいる、それはアメリカ国内かもしれないし、あるいは海外のどこかにいるであろうそんな子供に、誰かが見ていて関心を持ってくれていると伝えたいんです。
「私たち」というのは存在し、子供も若者も大人も愛されている、一人ではないと伝えたいんです。
まとめ
同性愛者である事をカミングアウトした驚きのスピーチでした。
とても勇気のいるものだし、正直僕は誰かのお手本になる為に何か恥をさらけ出すというのは出来ないです。
自分のバックグラウンドが曖昧で、帰属意識を持つことなく育っている子供たちにとってとてもお手本のような演説でした。
コミュニティを意識、認識することで自分を把握するのは納得のいく内容でした。
公式YOUTUBEチャンネル紹介
ずまログ公式YouTubeチャンネル「校長の長話よりいいよね」では主に隔日で英語から学ぶ人生の教訓をテーマにお届けしています。
文字だけでは伝わりづらい、表情やボディーランゲージから生の英語をご覧ください。
是非、「ずまブログ」と「校長の長話よりいいよね」を併用して、一緒に学びましょう!
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